中国語の達人と呼ばれる人たちがいる。中国語が至極上手な人を指して言う言葉のようだ。かくいう筆者もこの言葉で人に紹介されることがある。私より中国語ができる人などゴマンといるのに、そんな風に紹介されるのは恥ずかしい限りなのだが、いちいち訂正していたらキリがないし、逆に人格者ぶっているようにも思えてしまうので、笑って流している。
このような話になるのは、そもそも「達人」には明確な基準がないからだ。理由は『中国語「マスター」の不都合な真実』で述べた「マスター」という言葉に同じ。「達人」という概念も「言ったも勝ち」の言葉でしかないのだ。「master」という語彙には「達人」という語義もあるので、もともとこの2つの言葉は同義である。ただ、英語の「master」には他動詞用法があるので、「習得する」という語義も持つのだが。日本語で「マスターする」という使い方をされるのはここからきている。
本来は同義であるはずの「達人」と「マスター」だが、両者に差を感じるのは筆者だけであろうか。
筆者の語感では、「マスター」は「達人」に比べかなり軽い感じがする。「まずは英語をマスターして、それから中国語をマスターする。」という言葉には違和感を覚えないが、「英語の達人になって、さらに中国語の達人になる。」という表現にはかなりの重量感を覚える。
これは、「達人」という言葉から「その道を極めた人」というニュアンスを読み取るためではないだろうか。「達人」は長期間特定のことに打ち込んで極めた「技」を持つ人に対する一種の敬称なのだ。だからいくつもの分野で「達人」になるということは現実的ではない。「達人」という言葉は軽々しく使うものではないのだ。
故に、「マスター」のように会話がちょっとぐらいできるようになった程度で自称できるものではない。「私は中国語をマスターした」という表現は至って普通だが、「私は中国語の達人だ」という表現が尊大に聞こえてしまうのはこのためだ。ここからもわかるように、「達人」には高いレベルが要求される。少なくとも、日常会話ができるぐらいではとても「達人」とは言えないだろう。
では、「達人」というレベルとはどの程度のものなのだろうか。残念ながら「マスター」の場合と同じく、明確な基準はない。その上で、「達人の条件」なるものを考えてみたいと思う。
中国人レベル
中国語が上手であることを形容して「中国人みたい」と言うことがある。中国語を母語とする中国人と同等という意味であり、中国語を学ぶ者にとっては最上級の褒め言葉になるのではないだろうか。
では、「達人」は「中国人レベル」とすることはできないだろうか。
答えは......残念ながら「否」である。これは日本語に置き換えるとわかり易い。中国人が「中国語の達人」であるならば、日本人は「日本語の達人」となる。では、日本人ならば「日本語の達人」なのだろうか。少なくとも、筆者自身はそれに該当するとは思えない。私の国語レベルで「達人」となるのならば、日本は国語の達人だらけになってしまう。
そもそも、「中国人レベル」というのも極めて曖昧だ。日本人だって国語能力に長けている人もいれば、作文用紙一枚400字だって苦痛だ、という人もいるように、その能力はマチマチだ。
ここで、母語としての言語運用能力(例えば中国人の中国語運用能力)と、非母語としてのそれ(日本人の中国語運用能力)をそのまま比較するのは現実的ではない、というツッコミを入れてみたい。
話が観念的な方向に流れているので、もう少し具体的に考えてみたいと思う。
発音
「達人」を目指して日々猛勉強に励む人たちがいる。では、彼らが重視しているものは何だろうか。一概には言えないのだろうが、「発音」にこだわりを持っている人が少なくないようだ。
発音の良し悪しは中国語能力評価に大きな影響を与える。人に喩えて言えば外見みたいなものだ。外見だけでは人の良し悪しがわからないように、発音だけではその人の中国語能力の高低を測ることはできないのだが、人は往々にして外見で他人を判断してしまうように、中国語能力も発音の良し悪しで判断されてしまう傾向が強い。
では、発音は中国語の「達人」の条件となるのだろうか。
個人的には「是」でもありまた「否」でもあると考える。発音の良し悪しは重要だが、絶対的なものではないからだ。少なくとも相手が聞き取りに苦労しないだけの発音は必要になるだろう。その意味では「是」である。ただし、中国人と同等の発音レベルでなければ達人とは言えないと言う見方には反対だ。
そもそも当の中国人ですら正確な発音をする人は多くない。もともと広大な国土を持つため方言間の発音差異が大きく、標準的発音の基準となった北京官界の「官話」との発音的差異が大きい方言の地域に生まれ育った人は少なくない。言語学的に言えば、彼らにとって普通語(標準語)の発音は外国語の発音みたいなものだ。
このため、見た目が中国人とさほど変わらない日本人は、中国語の発音がある程度のレベルに達すると中国人と間違えられるようになる。発音については「どこかの方言訛りが入っているなぁ」というぐらいにしか思われなくなるからだ。
それはさておき、挨拶や日常会話程度の話なら発音重視で判断してもよいと思うが、達人に求められる能力がその程度のものではないことは自明だ。いくら発音が上手でも、複雑な話題に移行した途端に言葉に詰まるようでは話にならない。
一方で明らかに外国人的な発音であっても、聞き取りに不自由しないレベルに達していれば交流に支障はきたさない。自然な中国語表現で常識ある会話ができるか否か、という点が、発音よりずっと重要になるのではないだろうか。
語彙
では、どのような話題にも対応できる語彙力は中国語の「達人」の条件となるのだろうか。
筆者は、これもまた「是」でも「否」でもあると考える。語彙力は言語運用上非常に重要で、時に決定的な要素となるが、これも絶対的なものではないからだ。
語彙は、大雑把に一般語彙と専門語彙に分類できる。一般語彙は専門性を帯びない語彙で、日常的に使用される語彙のことをいう。専門語彙は特定の分野でのみ使われるもので、例えば法律用語や医学用語などがそれに当たる。
「達人」という以上、一般語彙はあらかた習得していて当然だろう。とっさに出てこないことはあるかもしれないが、全体に占める割合が小さければ、別の語彙に置き換えるなり、その語彙を中国語で説明するなりすれば済む話だ。一方の専門語彙は、専門外のネイティブスピーカーも知らないのだから、それらすべてを記憶することは現実的ではない。
一般に達人とみなされている通訳者すら、専門用語はクライアントの要求に応じて突貫作業で覚えるものだ。人間はコンピューターではないのだから、記憶には限度というものがある。
表現方法
一般に重要視される「発音」と「語彙」ですらこの程度のものでしかない。もちろん発音は正確であればあるほど良く、語彙数は多ければ多いほど良いことは確かなのだが。
何を隠そう筆者もそのような一人だった。発音を徹底的に矯正し、日々ボキャビルに励んでいた。回顧してみると、正直な話、すごい無駄なことをしていたな、とつくづく実感する。
言語は人の意思を伝える媒体だ。最も重要になるのはその「内容」であり、その「表現方法」である。発音や語彙は、この「表現方法」の一部分でしかない。たとえどれだけ発音が美しく、また語彙が豊富且つ的確であったとしても、それがTPOにふさわしくない、非常識な表現であったらすべてが台無しになる。
日本と中国では、同じ場面でも正反対の表現をすることがある。例えば、贈り物をする場合、日本では「たいしたものではございませんが」とか「つまらないものですが」という枕詞を使うのがセオリーだが、中国語で同じことを言ったら大変な失礼に当たる。中国では贈る物がどれだけ高価なものなのか強調するのがスタンダードなのだ。贈り物の価値がそのまま貰い手の価値を反映するからだ。
そんな場面で「つまらないものですが」なんて言うことは、自分にとってあなたは「つまらない存在でしかありませんが」と言っているのと同じだ。たとえいくら発音が美しくても、また語彙や文法に瑕疵がなくても、否、発音が正確であればあるほど、また語彙や文法が的確であればあるほど逆効果になるだろう。
内容
「表現方法」に問題がなくとも、「内容」がなかったり、いまいちであったら、敬意を得ることはできない。もっとも、「内容」については状況次第ということもあり、一言で語り尽くせるものではないのだが。
私たちは嫌が上でも日本人である。中国人と交流する場合、日本や日本人のことが話題になることが多い。日本社会、文化、政治経済流行など、あらゆるものが話題となり得る。また、日中文化の比較や日中間の政治問題、そして敏感な歴史問題が俎上に載ることも少なくない。
如何に発音が上手でも、また語彙が豊富でも、これらのことを聞かれて何も話せないのでは文字通り話にならない。「中国語の達人」であって「日本の達人」ではないのだから、という反論が聞こえてきそうだが、日本人である以上これらのテーマを避けて通ることはできないのだ。専門家ではないのだから細部まで議論できるようになる必要はないが、少なくとも日本の現状、及び自分の意見を明確に伝えることができるだけの認識は最低限必要になる。
「達人」というレベルで考えるならば、歴史問題のような敏感な話題でも堂々と中国人とやり取りできる能力が要求されるであろう。中国人をやり込める、とかいう話ではなく、自分の歴史観がどのようなものであれ、安易に"对不起"という言葉に逃げることなく議論を進められる能力と知識があってこそはじめて「達人」と言えるのではないだろうか。
知識
TPOをわきまえた「表現方法」にせよ、日本や日中間に関する話題にせよ、鍵となるのはそれらに関する「知識」である。中国語に没頭すれば没頭するほど発音の良し悪しや語彙力に目が行ってしまうものだが、実践上では関連知識がより重要になることが少なくない。
例えば、中国人は歴史が大好きだ。ある意味宗教と言ってしまっても良いかもしれない。歴史故事から多くの成語が生まれ、それが現在に至るまで広く使われていることも、それを反映してのことだ。そのため、歴史的事件や歴史上の人物にまつわる比喩表現は極めて豊富だ。その故事を知らないと意味がわからない表現も少なくない。このため、歴史的な知識を身につけるのも中国語の高度な運用にとって不可欠な要素となる。
成語になっているものを覚えていけば良い、と思われるかもしれないが、いわゆる知識人になると、成語として確立している範囲を超えた、本当に幅広い知識を応用した比喩表現を多用する。少なくとも、このような比喩表現を聞き取って理解できることも「達人の条件」となるだろう。一歩進めて、自分がそのような比喩表現を自由自在に操ることができることを「達人の条件」としても良いのではないだろうか。
長くなったが、発音や語彙は「達人の条件」のごく一部でしかない。「中国語の達人」は単なる言語としての中国語の領域に止まるものではないからだ。日本人としての「中国語の達人」とは、高度な中国語運用能力と、日本及び中国の歴史文化習俗等に関する圧倒的な知識を融合させて、自在に中国人と交流できる人を指して言う敬称なのだ。
筆者はここに「達人」と「マスター」の相違を見出す。「マスター」とは単に発音や語彙を身につけ、中国語を運用できるようになることをいう。そして、それに加え歴史文化習俗などに関して幅広い知識を持ち、多様な比喩表現などを駆使できるようになって、はじめて「達人」と称することができるのではないだろうか。