中国語学習の「質」と「量」

学習法論には先に紹介した「インプット学習とアウトプット学習」の他にも、同じく相対する概念として「質」的学習と「量」的学習という分類法がある。

「質」と「量」が意味するところ

ここではまず「質」と「量」が意味するところにおいてそれぞれ簡単にまとめる。「質」の学習とは、いわゆる教科書に代表されるような、文法・語彙などを逐一丁寧に学習していくやり方をいう。テキストをリスニングして、辞書で新出単語を調べ、文法項目を確認し、音読を行って最後に練習問題で復習する、という感じで、いわゆる勉強らしいことを行う。学校の英語教育を想像すればまず間違いないだろう。

一方の「量」の学習とは、例えば中国語の新聞や小説等を読み流したり、ニュースを聞き流したりするやり方をいう。わからない単語についていちいち辞書で確認することはしない。我々が日本語の小説やニュースを読み流したり聞き流したりするようにして行う学習法だ。

リスニングとリーディングについては、それぞれ質の学習は「精聴」「精読」、量の学習は「多聴」「多読」と呼び習わす。一方スピーキングとライティングについては、「質」と「量」に分類して考えることはほとんどない。したがって、「質」「量」論はリスニングとリーディングというインプット学習に限定したものだと理解すれば良い。

正確と流暢

このように相対する学習法論が話題となると、必ずと言っていいほどその学習効果の優劣の話になるのだが、「質」と「量」については、優劣の関係は存在しない。そもそもこの2つの学習法は、目的とするものがそれぞれに違うのだ。

質的学習である「精聴」「精読」は、中国語の基礎作りに欠かせない学習法である。基礎が固まってはじめて中国語の正確な理解と表現が可能となる。これなくして学ぶ中国語は、フレーズ丸暗記会話かブロークンチャイニーズのいずれかにしかならない。「精聴」「精読」が初級において広く行われるのはこのためだ。基礎の骨格となる文法が重要項目となる初級において、質的学習は不可欠の存在なのだ。

一方、量的学習である「多聴」「多読」は、より自然な中国語を身につけるために行うものだ。自然な中国語表現を行うには相応の語感が必要となるが、語感の養成には中国語に大量に接する必要がある。「精聴」「精読」は時間的な制約が大きいので、量をこなすことができる「多聴」「多読」となるのだ。

平たく言えば、質的学習は正確な中国語を、量的学習は流暢な中国語を身につけるための学習法と考えれば良いだろう。

「質」から「量」へ レベルに応じて移行する中国語学習の流れ

このような学習効果の相違から、実践上においては、質的学習と量的学習はそれぞれ別時期に実行することになる。

質的学習は初級レベルにおいて中心となる学習法だ。初級レベルにおいてはもともとインプット学習が中心となるが、その中でも「精聴」「精読」が学習の軸となる。その後基礎が固まる初級後期から中級初期あたりから徐々に量的学習である「多聴」「多読」を織り込んでいき、中級後期以降は「多聴」「多読」を軸とするのが大きな流れとなる。

もちろん、初級で「多聴」「多読」を、上級で「精聴」「精読」を行ってはならない、という訳ではない。あくまで大きな流れとしてそうなる、と理解してほしい。事実、初級テキストにおいても多読の要素を取り込んでいることが多い。テキスト各課の本文の他に、ちょっとした中国語の文章が差し込まれているテキストをよく見かけるが、これは、量的なものを補うための多読コンテンツなのだ。

中国語リーディングに強い日本人のアドバンテージを利用せよ

一方で、質的学習から量的学習への頭の切り替えで躓く学習者も少なくない。質的学習にどっぷり漬かった状態で、いきなり量的学習と言われても、何でもかんでも辞書を引くような質的学習の癖がついているので、なかなかスムーズに量的学習に移行できないのだ。

しかしながら、幸いにも日本人は、母語と中国語が文字として漢字を共有しているという大きなアドバンテージを持っているので、思わず辞書に手が伸びてしまうリーディングにおいても、他の言語を母語とする人に比べ多読を行いやすい。日本人にとっては、前後の文脈に加えて漢字から得られる情報が存在するので、多読による読解はさほど難しいものではない。世界の非中国語話者を対象としたHSKにおいて、日本人のリーディングスコアが諸外国人と比べ圧倒的に高いことも、この点を裏付けるものだ。

したがって、電車の中など、辞書を引きにくい環境の中で多読を始めるなど、ちょっとした工夫をすれば、すぐに量的学習の世界に馴染むことができるのではないかと筆者は考える。

おいしいとこ取り?中途半端?「精多聴」と「精多読」

便宜上質的学習と量的学習、または精聴精読と多聴多読と立て分けて論を進めてきたが、実際にはこの中間に位置する「精多聴」或いは「精多読」とでも言うべき学習法も存在する。

一応精聴なれど、密度を低くして多聴的要素を取り入れたり、その逆に多聴なれども密度を高くして精聴的な要素を持たせること、リーディングにおいてもまた然り、だが、両方の要素を混在させる学習法である。どの程度混在させるのか、またどちらに軸足を置くのか。それはすべて各々の学習プランに合わせて調整することとなる。

「精多聴」と「精多読」については本当に千差万別で、ここでその方法について逐一論ずることはできない。各自自身の状況に合わせて、いろいろと試してみてほしい。

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