バイリンガルに見る母語力と言語力の関係

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前項「中国語の「天才」とバイリンガル」でバイリンガルの語学力について長々と考えてきました。バイリンガルに拘ったのは、彼らの事例が私たちモノリンガル国家でモノリンガル教育を受けてきた日本人の中国語習得法を考える大きな一助となるためです。

私たちは外国語習得について考える際、往々にして表面的な部分にばかり目が行ってしまいます。前項の繰り返しになりますが、一見すると日本語と中国語の両言語を自在に操っているように見える日中バイリンガルも、その大半はどちらか一方の言語は日常会話ができるだけのレベルだったり、両言語ほぼ均等だけど、それぞれについて一般の高等教育を受けたモノリンガルの母語運用力に比べやや遜色が見られるというケースが多々あります。

言語は文化の源

少し話が飛躍しますが、言語はただ単なる会話の手段に止まるものではないことをここで強く申し上げておきます。ただ単に日常会話ができれば良し、とするのならバイリンガル万歳で終わりますが、言語はその社会・国家・民族の文化と伝統の継承媒体であり、その継承発展はその社会・国家・民族を構成する人々の言語力に大きく依存します。

短期的な経済効率を考えれば、母語のレベルが相対的に低くても外国語会話ができる人が多い方が良いのでしょうが、文化というレベルからこの問題を考えるならば、深い思考力とそれを伝達できる高い言語力に乏しい層が増大することは、その国なり民族なりの文化の衰退に直結します。言語は文化の源なのです。

歴史が浅く、多民族の融合社会となっている都市国家の場合は伝統云々より経済的効率を優先させた方が良いのでしょうが、日本のように独自の文化と歴史を持っている国ではそれは許されません。

長期的に考えれば、経済という観点から考えても民族・国家の文化は非常に重要になります。日本を例に引くのなら、他国家他民族にない特徴を持つ「日本文化」自体がブランドになり得ることは、昨今の日本ブームを見ればお分かりになっていただけるものと思います。

そんな大きな話には関心はない、という方もいるでしょう。それもおっしゃるとおりです。そんな話は日頃ふんぞり返っているおエライ様方に遊ばせておけばよいのですから。

一日一日を一所懸命生きて、少しでも暮らしが良くなるよう日々奮闘している私たち一般庶民にとっては、より実用的な日常会話レベルの言語能力の方が重要であることには私も同意です。

言語力が命

ただし、だからといって一般庶民たる私たちは、外国語を身につけるためなら母語を軽視できるのか、というと、残念ながらそれは無謀以外の何物でもありません。

中国語だろうが、日本語であろうが、はたまた英語・韓国語・ドイツ語・フランス語であろうが、いずれも言語には変わりはありません。

言語というのは面白いもので、複数の言語を身につけていても、それを運用する言語能力の部分は共通なのです。

ちょっとわかりにくいので例え話を出してみましょう。最近のパソコンは多言語対応で、はじめから外国語のフォントや文字入力ソフトがインストールされています。日本語のOSでも、ちょっと設定するだけで、中国語を入力することができるようになりますね。一昔前は、別途ダウンロードして、インストールしなければいけなかったのですが。

例えて言うなら私たちが身につける外国語はこの文字入力ソフトのようなものです。そしてOS(或いはそのパソコン自体)が言語能力に相当します。外国語、極論するなら母語自体も、その母体となる共通の言語中枢に依存しているのです。

この言語中枢は幼少期からの言語教育により発達していきます。高度な言語運用能力の活動を支える言語中枢は、高度な言語教育によってのみ形成され得るのです。

これに際して同時に二つの言語を注ぎ込むのがバイリンガル教育ですが、言語が増える分、相対的に浅くなる傾向があります。言語教育に十分な時間を投入できるのなら問題にはなりませんが、教育は言語だけに止まるものではありません。単純に「高度な言語教育」という視点から比較すれば、モノリンガル教育の方が圧倒的に有利なのです。

そして恐ろしいことにこの言語能力は外国語習得の上で非常に大きな影響を及ぼします。言語能力の高い人は、外国語習得の速度も相対的に速く、また、高い運用能力を身につけることができますが、言語能力が低い人は習得速度が遅い上に、ある一定の所まで達すると、ほとんど進歩しなくなります。

留学中の発見

私が母語能力の大切さに気づいたのは、中国に留学していた時です。

語学留学だったので回りは留学生ばかりでした。私が留学した学校は日本からの留学生が多く、日本人留学生の中国語を聞く機会が多かったのですが、母語である日本語と、外国語として学習している言語である中国語との関係について面白い発見をしました。

一般的に中国在住期間が長いほど中国語の会話力は高くなりますが、中国語のレベルが高い人ほど、日本語における会話の際に見られる癖が中国語での会話の中でもそのまま見受けられました。

また、日本語で表現力の豊かな人は中国語の表現力も豊かになる一方で、ある意味日本語が「おかしい」人は中国語でもいまいち的がはずれた表現しかできないケースが多々見受けられました。

全体的に高い中国語力を持っている人は、日本でも高学歴を持っているというケースが多かったように思います。大学受験に失敗して中国に送り込まれてきた留学生と、それなりの大学に在籍しているか、或いは卒業して来ている留学生ではかなり顕著な差がありました。

もちろんこれは言語能力のみならず、学習能力そのものや学習に対する意欲なども絡んでくるので学歴を以って断定することはできませんが、母語能力を測る術がないのであくまで参考までということで。

研究者ではないので広範に調査した訳ではないのですが、少なくとも私の身近では、全体的に上記のような傾向が強く見られました。私たちモノリンガル社会で生まれ育った人間の場合、母語力を見ればその人の言語能力を推し量ることができるので、基本的にこの推測の誤差は大きなものではないと思います。

読書のすすめ

一定の年齢を過ぎてから習得した第二外国語は、絶対に母語を超えることができないと言われています。要は、母語のレベルが低ければ、第二外国語の習得にも悪影響を及ぼすのです。

ではこの言語能力を育成するにはどうすればよいのでしょうか。

先に言語能力の修養は幼少期からの言語教育を通して行われる必要があると述べました。言語能力を育成するのに最も有効なものは読書です。特に青少年期の読書は言語能力育成という視点から見ても、また思想形成という観点から言っても、一生の財産になるのは間違いないでしょう。

青少年期ほど顕著な効果は期待できませんが、成人後でも活字に親しむことで言語能力を磨くことは可能だと思います。

いずれにせよ、本物の中国語を身につけたいということでしたら、母語である日本語を大切にされることをおすすめします。ぶっちゃけた話、中途半端なバイリンガルよりモノリンガルの方が希望が持てるのです。日本語能力が高ければ中国語の上限も高くなります。日本語に自信がある方は、中国語の達人を目指しても良いかもしれません。

自信がないって?「マスター」すれば良いではありませんか。実用的な部分さえ身につけてしまえば卒業です。余った時間はお好きなことに費やしてください。結局のところ「達人への道」だって道楽に過ぎないのですから。